【三国志】三国時代の終焉と統一を果たした国

三国時代といば「魏」「呉」「蜀」の三国がしのぎを削っていた時代として日本でも非常に有名で人気も高いと思いますが、その三国時代がいかにして終わりを迎えたのか知名度の割に知られていないのではないかと思います。

もちろん、三国志が好きな方であれば知っていると思いますが、三国志について名前は聞いたことがあるレベルの人だと知らない人が多い気がします。

ここではできるだけ簡潔に三国時代がどう終わったのか説明していきたいと思います。

三国時代の始まり

三国時代の始まりは広義では西暦184年に勃発した黄巾の乱からです。それまで中華を治めていた「後漢」の力が弱まり、各地で反乱が起きます。これが黄巾の乱と呼ばれ、これにより後漢の力は更に弱まり、各地に群雄が起こります。

その群雄の一人曹操は華北と呼ばれる地域を平定し魏の礎を築きます。そして曹操の子、曹丕が後漢最後の皇帝「献帝」から禅譲を受けます。禅譲とは皇帝の位を血縁者ではない別の人間に譲ることです。この禅譲により後漢は滅びたこととなり、曹丕による魏王朝が始まります。(220年)

一方、後漢の血を引く劉備は漢王朝復興のため曹操に抵抗します。蜀と呼ばれていた地域に入りそこを治め、また漢中と呼ばれる地域を曹操から奪います。そしてそこで皇帝となり蜀漢を建国します。(221年)

劉備とは別に曹操に抵抗できる力を持っていたのが孫堅とその子ども孫権です。孫権は江東と呼ばれる地域を支配していました。そして中華統一のため南下してくる曹操を劉備と協力し破ったのが有名な赤壁の戦いです。
そして220年に後漢が滅び、魏の曹丕が皇帝につきます。孫権はこのとき魏に臣従し、呉王に封ぜられますが、222年に新しく元号をたて魏から独立し、229年には皇帝に即位し呉が建国されます。

ここに三国鼎立が確立しました。

※229年の勢力図。赤が魏(wei)、緑が蜀漢(han)、青が呉(wu)

蜀漢の滅亡

この三国時代の中で一番初めに滅びるのが蜀漢です。224年に劉備が死に、皇帝は劉備の子、劉禅となります。しかし実際に国を動かしていたのは諸葛亮(孔明)です。

諸葛孔明は劉備の意思を継ぎ、魏に対抗し幾度も北伐をしかけます。しかし諸葛孔明も志半ばで死んでしまいます。(234年)

そして263年、魏の侵攻により劉禅は降伏。ここに蜀漢は滅びることになります。なお劉禅は降伏したため殺されず魏の洛陽に移され65歳まで生きます。

魏の滅亡

蜀漢が滅びた2年後の265年に魏が滅びます。蜀漢は外部の魏によって滅ぼされましたが、魏は内部から滅びることになります。

曹操に仕えていた司馬懿(仲達)は功績を立て続け徐々に魏での力を増していきます。曹操の子、曹丕の時代になっても司馬仲達は重用されており、諸葛孔明とも戦っています。
249年に司馬仲達はクーデターを起こし魏の全権を握ります。司馬仲達は251年に死にますが、孫の司馬炎が魏の皇帝「曹奐」に禅譲を強要し、皇帝に即位。「晋」を建国し魏は滅びます。(265年)

後漢の献帝に禅譲をさせて滅ぼした魏が禅譲により滅びたのです。

呉の滅亡

三国の中で最後まで残ったのが呉です。呉は長い間孫権によって治められていましたが、後継者問題で内部が分裂し始めます。皇太子を孫権の三男孫和にするか、四男の孫覇にするかで家臣たちが真っ二つとなり争います。泥沼化した争いは喧嘩両成敗で第三者を立てることでしか解決はできませんでした。最終的に皇太子は七男の孫亮となりましたが、この争いによる呉内部の亀裂は修復不可能となっていました。

その後、孫亮→孫休→孫皓と皇帝が移り変わっていきますが、内部争いで疲弊した呉はもはや晋に対抗できませんでした。280年に晋軍は呉の首都・建業に達し孫皓は降伏し呉は滅びたのです。

晋が統一

184年の黄巾の乱から始まった覇権争いは280年の呉の滅亡により終わりを迎えました。

最終的に、中華を統一したのは「晋」という魏でも呉でも蜀でもない国だったのです。

蜀は諸葛孔明の死後斜陽となり魏に滅ぼされ、魏は内部から乗っ取られ滅亡、呉は内部争いで疲弊し後、晋によって滅亡という形になりました。

三国のどこが天下統一するのかワクワクしていた人からするとなんとも言えない終わり方でしょう。そして悲しいことに、晋によってようやく中華が統一された280年からたった36年後の316年にその晋も滅びてしまうのです。

そして五胡十六国時代が始まっていくのですがそれはまた別の記事で説明することとします。

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