曹操は本当に呂伯奢を殺したのか?


曹操の有名な逸話の一つに呂伯奢の家族の殺害があります。
董卓から逃れるため洛陽を脱出し帰郷する際、曹操は知人の呂伯奢の家に立ち寄りました。しかしそこで曹操は食器の音を自分の殺害準備の音と勘違いし家人を殺害し、その後、外出していた呂伯奢も殺害してしまうというものです。

しかしこのエピソードは正史の『三国志』には記述がありません。ここでは様々な書史でこのエピソードがどのように扱われているのか紹介していきたいと思います


三国志演義では

曹操が家人を殺害し更に呂伯奢まで殺したというエピソードが広まったのは小説『三国志演義』でそう書かれたからです。『三国志演義』では呂伯奢殺害のあと曹操は「寧教我負天下人、休教天下人負我」(天下の人に背くとも、天下の人に背かせはしない)と言ったとされています。
この三国志演義を基にして様々な作品が作られました。日本で有名な吉川英治の『三国志』や横山光輝の『三国志』でも呂伯奢殺害のエピソードが採用されているため、日本人にとっても有名なエピソードの一つとなったのです。

中国の歴史ドラマ「Three Kingdoms」も三国志演義をベースとしているため呂伯奢殺害の描写があります。

ただここで忘れてはいけないのは三国志演義は主人公劉備と悪役曹操の対立軸を中心にストーリーが作られているということです。そのため「人徳の劉備」と対比させるため、あえて曹操を残忍に見せるようなエピソードにされてる可能性があるということです。

魏書では

王沈の『魏書』では呂伯奢は留守で家人たちが曹操の馬と荷物を奪おうとしたため殺害したとあります。

魏晋世語では

郭頒の『魏晋世語』では、このときいわゆるお尋ね者であった曹操は呂伯奢の息子たちに命を狙われていると疑い剣を取り殺したとしています。呂伯奢本人は留守であったため殺されてはいません。

異同雑語では

孫盛の『異同雑語』には曹操が食器の音を自分の殺害の準備をしていると勘違いし殺害したとしています。

まとめ

正史の「三国志」には呂伯奢家族殺害の記述はありませんが、他の書史には記述があります。しかし呂伯奢本人を殺したとしているのは曹操の時代からずっと後の明代(1368〜)に書かれた『三国志演義』だけです。

魏書、魏晋世語、異同雑語には呂伯奢の家族を殺害したとありますが、この3つの中で最も古いの魏末期に書かれた魏書です。魏書よりも後になって書かれた世語と異同雑語は魏書を参考にして呂伯奢家族殺害のエピソードを盛り込んだ可能性もあるため、3つの書史に殺害の記述があったとしても信憑性が高いとは言えません。

そして魏書を書いた王沈ですが、曹髦(曹操のひ孫)に司馬昭討伐の計画を打ち明けられ、協力を要請されますが、それを密告しているのです。結果、曹髦の計画は失敗に終わります。そしてその後王沈は司馬家に重用され出世していきます。つまり王沈は曹氏よりも司馬氏についたというわけです。
そんな王沈が書いた魏書は時勢に配慮した内容であったとも言われています。つまり魏から晋に移り変わっていく時勢に配慮したのです。

当時の王沈にとって重要なのは滅びゆく曹氏ではなく、天下を取るであろう司馬氏であったと思います。曹氏のことを悪く書き、司馬氏を持ち上げる形をとっていても不思議ではありません。

呂伯奢とその家族殺害の真相はわかりませんが、当時の記述一つ一つになにかしら筆者の意図や思想が詰まっているはずです。筆者の背景を知ることで様々な見方ができるようになります。記述をそのまま受け入れるのではなく筆者の背景や時勢と照らし合わせ、想像を働かせてみるのも面白いと思います。

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