「屍に鞭打つ」の語源は?伍子胥の復讐の物語

横山光輝『史記』第2巻より

「屍に鞭打つ」という言葉がありますが、この言葉の語源は古代中国の伍子胥という人物が行った行為からきています。

ここでは伍子胥の物語とともに「屍に鞭打つ」の語源を紹介していきたいと思います。

登場人物

・伍子胥(ごししょ)
中国の王国「楚」出身の人物。伍一族は楚では名家。伍奢の息子。

・平王
「楚」の王。

・太子健
平王の息子であり楚の太子。

・伍奢(ごしょ)
伍子胥の父。太子健の侍従長。

・費無忌(ひむき)
太子健の副侍従長。平王の側近になりたいという野望を持つ。事件はこの男が原因で起きる。

・闔閭(こうりょ)
中国の王国「呉」の王。伍子胥の復讐に協力する。

語源となったエピソード

楚の平王は太子健の嫁を秦という国からもらうことを決め、太子健の副侍従長であった費無忌を秦まで迎えに行かせた。
楚に嫁ぐこととなった秦の姫の美しさを見た費無忌はその姫を太子健ではなく平王の側室にし、平王に気に入られることを思いつく。
平王は姫の美しさに魅了され、自身の側室とし、太子健には別の女性を与えた。費無忌をこれにより平王に気に入られ、側近となる。

費無忌は太子健が王に即位したとき、自身の地位が脅かされるのではないかと危惧し、平王に太子健の中傷を吹き込み、2人の仲を悪くさせる。
更に太子健が謀反を企んでいると平王にデタラメをいい太子健を殺すよう進言するが、それを察した太子健は亡命し、計画は失敗に終わる。

太子は廃されたが、平王は楚の名家「伍一族」の影響力を恐れ、太子健の侍従長であり都にいた伍奢を捕らえた。都から離れたところにいた伍奢の息子「伍尚」と「伍子胥」には「父を助けたければ都まで来い」と使者を送った。
伍子胥はそれを自分たち全員を殺す罠だと察し逃亡したが、兄の伍尚は父を見捨てることができずこれに従った。捕まった伍奢と伍尚は処刑され、逃げた伍子胥は平王に復讐を誓った。

伍子胥は「呉」という国に亡命し、呉王「闔閭」の側近にまで登りつめる。兵法書「孫子」の作者である「孫武」を登用することを薦め、呉王は孫武を将軍として迎え入れる。
呉に楚を倒す力はまだないと判断した伍子胥は国内の整備をし、国力を蓄えさせた。
そのかたわら伍子胥は小規模の軍を国境付近の集落に進軍させ、楚が国軍を出してくると撤退させを繰り返し楚を疲弊させた。

そして紀元前506年、ついに呉は楚に侵攻した。兵法の天才孫武と楚に詳しい伍子胥を抱える呉は破竹の勢いで勝ち進み、ついに楚の首都「郢」を陥落させた。
そのときすでに、平王は死んでいたため伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回鞭打ちし恨みを晴らしたのであった。

これが「屍に鞭打つ」の語源である。

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